過去日記:僕のなかで島田くんが死んだ話
高校という施設は、ひとことでいえば「墓場」だった。どこを見ても灰色ばかりが目に入り、校舎のフケツな錆びを眺めては、「お前は一生しあわせになれない」と貶されている気がした。
僕は学業も部活も優秀な成績を収めていたので、教師からは期待されていて、同じく期待されていた自称勝ち組クンたちと「俺たちにこの学校は似合わねぇ」って叫んでた。
右手には自意識。左手には小難しい言葉を握りしめて、息をするようにすべてにバツ印を付けた。そして僕らは一人残らず、どうしようもないほどの凡人だった。
なんとなくすべてが並行で、並行であることがむず痒くて、お昼に食べたものを全部吐き出したくなったり、東京湾の地平線にむかってワーーっと走りたくなったりした。
そんな感じだったものだから、卒業以後は高校時代の記憶を意識的に遠ざけていた節がある。臭い物に蓋をするように、ウネウネ追いかけてくる生き物を躱すかのように、頭の中から無理やりデリート。汚いモノは見たくないよね、僕はあの頃のことをあんまり覚えていない。
・
しかし、そんななかでも鮮明に記憶に残ってることがいくつかある。その一つが、島田くんの存在である。
島田くんとは3年間同じクラスで、ごくたまに会話をするぐらいの距離感だった。彼は身長が190cmぐらいあって、そのわりにやたらと腰が低いジェントルマン。着物が似合いそうな雰囲気で、明治時代の文豪みたいだった。
で、なぜ彼を鮮明に覚えているかというと、それは隔離病棟みたいにジメジメしてたクラスのなかで、彼の眼だけが生気に満ちていたからである。
彼はよく「ジャーナリストになりたい」と言った。
夢や希望を人前で語るような性格でも、自分を軽々しく売り込むような性格でもないのに、どちらかというとヒヨワな感じなのに、それだけははっきりと、まるで大切な宝物をゆっくりと鞄から取り出すように語ったのだ。
実際彼は、廃部寸前の新聞部を立て直し、ときどき全校にむけて新聞を配っていた。襟爪正して、眉をキリっとさせて読むようなおカタい文章だったけれど、とっても丁寧な書きっぷりだった。
ほかにも夢を持ってた人はたくさんいたのかもしれないけど、彼ほど正直に誠実にそれを追ってる人はいなかったと思う。
それなのにあの頃の僕は、夢を語っちゃうなんて、と。そういう健全さを、無垢さを、とても愚かだと思っていたんだ。というか、僕の文脈には存在しないものだった。だって僕は「舐めて」いたから。
休日になれば、自意識がピンピンの親友の家に行って、しけたハンバーガーを指でつついた。部活には大して行かず、ゲームセンターという無為の楽園に入り浸っては、自分の可能性をブチブチと潰していった。
あの頃の僕にとって将来の夢なんて言葉は遠くの絶景でしかなくて、四畳半のアパートで壊れかけの扇風機にあたって、1秒1秒を灰色に塗り変えていく。そういう未来しか想像できなかった。
でも、そんな僕にむかって彼は言ったんだ。ジャーナリストになりたいって。僕がはるか昔に失ったような目を浮かべながら、力強く。
島田くんは僕にとって、対岸の人間だった。憧れのような、一方で、僕がコケにして見下してしまうような、そういう存在だった。そして彼が学習院大学に入学したということ以外、その後の彼については何も知らないでいたんだ。
・
先日、高校の親友と飲んだ。都内の区役所に就職した彼は、話の最後にケッと吐き捨てることが多くなっていた。最近こういうクレームがきたんだ。ケッ。俺は普通の人生を歩んでいきてぇんだ。ケッ。無意味な情報だけが飛び交い、惰性と無力さが食卓を囲う。
そんな会話も頃合いのとき、僕はどうしてか無意識のうちに
「そういえばさ、島田くんってその後どうなったの?」
と口にしていた。それは咄嗟に生まれた意味のない質問で、心のどこかに彼の存在が残り続けていたのだと思うけれど、それが偶然口から溢れただけの実のない言葉でしかなかった。同時に、島田くんの存在をちゃんと言葉にしたのは、卒業して以来はじめてのことだったと思う。
店内には弾丸みたいなロックが流れていて、隣で叫ぶ大学生たちの姿はネオン街の看板のようにぼやけて見えた。
そして親友は顔を上げて、泡の消えたビールを片手に、まるで電子音のように淡々とこう言ったのである。
「どっかの小さな電機メーカーで、事務員として働いてるって」
一瞬、世界の輪郭が歪んで、緩慢な時間が僕の五感を覆った。
「へぇ」
僕はそう呟いて、手元にあったジンジャーエールをおもむろに口にした。店の入口にあるミラーボールが、その周辺を無遠慮に照らしている。僕たちを照らす蛍光灯が、淡い白色を放つ。僕たちの影が机に映る。
そして、
「アイツさ、ジャーナリストになりたいって言ってたじゃん。なんでそうなったのよ」
と聞く僕に、親友は乾き切った声でこう言うのである。
「そんなもんだろ」と。
僕はどうしてかそのとき、星座のことが頭に浮かんでいた。幼い頃、僕は星座が好きだったんだ。手の届かないその煌きは、永遠という概念を僕に魅せた。無限大の宇宙に、すべての感情を委ねたくなった。それだけじゃなくて、そういえば昔、僕はテニス選手になりたくて、小説家になりたくて、弁護士になりたかった。いつから僕は、その北極星の高みを追わなくなったのだろうか。いつからその光を見失ってしまったのだろうか。そして彼は……。
「まぁ、ね」
僕はなるべく無機質に、無感情にこの瞬間を終わらせようと思った。終わらせなければならなかった。宇宙の果てを創らなければならなくて、この手で触れられる天井が必要だった。ざらざらした触感が必要だった。何かを溢れさせてはいけなかった。蛇口を止めなくては。サイレンを停止しなくては。少なくとも今の僕にはそれが必要だった。
明日も朝が早いんだからさ。どうしてかそのとき、机に乗っていた空のジョッキと灰皿が禍々しい物体に思えて仕方がなかった。
その日は曇り日で、退店して空を見ても、星は一つだって見えなかった。そして、きっと大人になった島田くんは煙草を吸っているに違いないと思った。
そんな夜のこと。島田くんの後ろ姿が頭のなかで蒸発していくような気がした。
じゃあまた、お元気で。