過去日記:僕のなかで島田くんが死んだ話

高校という施設は、ひとことでいえば「墓場」だった。どこを見ても灰色ばかりが目に入り、校舎のフケツな錆びを眺めては、「お前は一生しあわせになれない」と貶されている気がした。

 

僕は学業も部活も優秀な成績を収めていたので、教師からは期待されていて、同じく期待されていた自称勝ち組クンたちと「俺たちにこの学校は似合わねぇ」って叫んでた。
右手には自意識。左手には小難しい言葉を握りしめて、息をするようにすべてにバツ印を付けた。そして僕らは一人残らず、どうしようもないほどの凡人だった。


なんとなくすべてが並行で、並行であることがむず痒くて、お昼に食べたものを全部吐き出したくなったり、東京湾の地平線にむかってワーーっと走りたくなったりした。

 

そんな感じだったものだから、卒業以後は高校時代の記憶を意識的に遠ざけていた節がある。臭い物に蓋をするように、ウネウネ追いかけてくる生き物を躱すかのように、頭の中から無理やりデリート。汚いモノは見たくないよね、僕はあの頃のことをあんまり覚えていない。

 

 

しかし、そんななかでも鮮明に記憶に残ってることがいくつかある。その一つが、島田くんの存在である。
島田くんとは3年間同じクラスで、ごくたまに会話をするぐらいの距離感だった。彼は身長が190cmぐらいあって、そのわりにやたらと腰が低いジェントルマン。着物が似合いそうな雰囲気で、明治時代の文豪みたいだった。

 

で、なぜ彼を鮮明に覚えているかというと、それは隔離病棟みたいにジメジメしてたクラスのなかで、彼の眼だけが生気に満ちていたからである。

 

彼はよく「ジャーナリストになりたい」と言った。
夢や希望を人前で語るような性格でも、自分を軽々しく売り込むような性格でもないのに、どちらかというとヒヨワな感じなのに、それだけははっきりと、まるで大切な宝物をゆっくりと鞄から取り出すように語ったのだ。

 

実際彼は、廃部寸前の新聞部を立て直し、ときどき全校にむけて新聞を配っていた。襟爪正して、眉をキリっとさせて読むようなおカタい文章だったけれど、とっても丁寧な書きっぷりだった。
ほかにも夢を持ってた人はたくさんいたのかもしれないけど、彼ほど正直に誠実にそれを追ってる人はいなかったと思う。

 

それなのにあの頃の僕は、夢を語っちゃうなんて、と。そういう健全さを、無垢さを、とても愚かだと思っていたんだ。というか、僕の文脈には存在しないものだった。だって僕は「舐めて」いたから。

 

休日になれば、自意識がピンピンの親友の家に行って、しけたハンバーガーを指でつついた。部活には大して行かず、ゲームセンターという無為の楽園に入り浸っては、自分の可能性をブチブチと潰していった。
あの頃の僕にとって将来の夢なんて言葉は遠くの絶景でしかなくて、四畳半のアパートで壊れかけの扇風機にあたって、1秒1秒を灰色に塗り変えていく。そういう未来しか想像できなかった。

 

でも、そんな僕にむかって彼は言ったんだ。ジャーナリストになりたいって。僕がはるか昔に失ったような目を浮かべながら、力強く。
島田くんは僕にとって、対岸の人間だった。憧れのような、一方で、僕がコケにして見下してしまうような、そういう存在だった。そして彼が学習院大学に入学したということ以外、その後の彼については何も知らないでいたんだ。

 

 

先日、高校の親友と飲んだ。都内の区役所に就職した彼は、話の最後にケッと吐き捨てることが多くなっていた。最近こういうクレームがきたんだ。ケッ。俺は普通の人生を歩んでいきてぇんだ。ケッ。無意味な情報だけが飛び交い、惰性と無力さが食卓を囲う。

 

そんな会話も頃合いのとき、僕はどうしてか無意識のうちに
「そういえばさ、島田くんってその後どうなったの?」
と口にしていた。それは咄嗟に生まれた意味のない質問で、心のどこかに彼の存在が残り続けていたのだと思うけれど、それが偶然口から溢れただけの実のない言葉でしかなかった。同時に、島田くんの存在をちゃんと言葉にしたのは、卒業して以来はじめてのことだったと思う。

 

店内には弾丸みたいなロックが流れていて、隣で叫ぶ大学生たちの姿はネオン街の看板のようにぼやけて見えた。
そして親友は顔を上げて、泡の消えたビールを片手に、まるで電子音のように淡々とこう言ったのである。
「どっかの小さな電機メーカーで、事務員として働いてるって」

 

一瞬、世界の輪郭が歪んで、緩慢な時間が僕の五感を覆った。


「へぇ」
僕はそう呟いて、手元にあったジンジャーエールをおもむろに口にした。店の入口にあるミラーボールが、その周辺を無遠慮に照らしている。僕たちを照らす蛍光灯が、淡い白色を放つ。僕たちの影が机に映る。

 

そして、
「アイツさ、ジャーナリストになりたいって言ってたじゃん。なんでそうなったのよ」
と聞く僕に、親友は乾き切った声でこう言うのである。
「そんなもんだろ」と。

 

僕はどうしてかそのとき、星座のことが頭に浮かんでいた。幼い頃、僕は星座が好きだったんだ。手の届かないその煌きは、永遠という概念を僕に魅せた。無限大の宇宙に、すべての感情を委ねたくなった。それだけじゃなくて、そういえば昔、僕はテニス選手になりたくて、小説家になりたくて、弁護士になりたかった。いつから僕は、その北極星の高みを追わなくなったのだろうか。いつからその光を見失ってしまったのだろうか。そして彼は……。

 

「まぁ、ね」
僕はなるべく無機質に、無感情にこの瞬間を終わらせようと思った。終わらせなければならなかった。宇宙の果てを創らなければならなくて、この手で触れられる天井が必要だった。ざらざらした触感が必要だった。何かを溢れさせてはいけなかった。蛇口を止めなくては。サイレンを停止しなくては。少なくとも今の僕にはそれが必要だった。
明日も朝が早いんだからさ。どうしてかそのとき、机に乗っていた空のジョッキと灰皿が禍々しい物体に思えて仕方がなかった。

 

その日は曇り日で、退店して空を見ても、星は一つだって見えなかった。そして、きっと大人になった島田くんは煙草を吸っているに違いないと思った。

 

そんな夜のこと。島田くんの後ろ姿が頭のなかで蒸発していくような気がした。

 

じゃあまた、お元気で。

あのスペースワールドで、ヴィッキーの愛を永遠に感じていたかったーー。【長文インタビュー】

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スペースワールド」が、2017年に12月末に閉園することを発表。
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インターネットに並ぶ、無機質な黒文字。余命宣告のように、残酷で絶対的な告知文章。

 

脳髄を撃ち抜くようなそのニュースは、多くの遊園地ファンに衝撃を与えました。そして、
「オープンを覚えてくれているすべての人、27年間1度でも遊びに来てくれた人、すべての人にもう1度来て欲しい」
という言葉とともに送られたCMは、日本中を感傷の渦に包みました。

 

 

そんなスペースワールドの閉園騒動から2年ーー。あっという間に月日は流れ、今日この頃では、"かつての思い出"として語られ始めています。

 

そこで今回は、改めてスペースワールドについて振り返るべく、当園の熱狂的なファンである35000¥さん(@35000en)にインタビューを行いました。あの頃の雰囲気や、当時のスペースワールドの魅力を少しでも感じ取っていただけたらと思います。

 

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ー本日はよろしくお願いします。35000¥さんは、自他共に認めるスペースワールド好きとして有名ですね。

 

よろしくお願いします。そうなんですかね(笑)
閉園から丸2年が経ちますが、今でも最も好きな遊園地はスペースワールドです。

 

ー35000¥さんは、日本全国の遊園地はもちろん、海外の遊園地にもよく来訪されていますね。そんななかでも、スペースワールドが一番だと。

 

はい。やはり私にとってスペースワールドは、あまりに印象深い場所でしたね。

 

もちろん、今はもう手の届かない場所だからこそ、余計に愛が強くなっているという自覚もあるのですが(笑)
それでも、末永くファンであり続けたいと思っている遊園地です。

 

ー閉園年である2017年には、何度も何度も入園されたと聞いています。

 

あのときの私は、スペースワールドに足を踏み入れることに必死でしたね。

 

2017年は世間では"何もなかった年"と言われていますが、私にとっては激動の1年です。関東に住んでいながら幾度となくスペースワールドを訪れましたし、使う金額の上限すら定めずにグッズを買い漁りました。完全にスペースワールドの亡霊でしたね。

 

華やかな絶叫マシンの鉄骨や、エネルギーに満ちたジェットコースターの走行を見上げては「これが本当に消失してしまうのか」という想いが込み上げてきて……。
「一部の施設だけでも存続してくれれば……」という奇跡を祈り続けていました。

 

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全身全霊のダンスに衝撃!
35000¥さんが、スペースワールドに魅せられるまで


ーしかし、とりわけ2010年代以降のスペースワールドは閑散としていたと聞いています。実際のところ、園内は寂しい印象だったのでしょうか。

 

それについては、強く否定することができませんね。

 
閉園年こそ盛況となりましたが、2000年以降は全盛期に比べ、来園者が少なかったことは明白でしょう。人気のジェットコースターでさえ10分待ちが通常であり、園内は閑散としていましたね。

 

ー以前35000¥さんが、「地面なども割れていた……」とお話していましたね。

 

そうですね。
ひび割れた地面。錆や汚れの目立つ造形物。残されたままの閉鎖施設。それに来園者数の少なさも相まって、どうしても寂れた印象は感じてしまいました。

 

TDRUSJの台頭や娯楽の多様化により、地方遊園地からは人が遠のき、灰色の時代を余儀なくされていましたからね。

 

ー初入園は2014年とのことで、当時は大学生だったそうですね。そのときは、あまり期待していなかったのでしょうか。

 

九州までインターンに来ていた私は、その休日を利用してスペースワールドを訪れました。
ジェットコースターのファンだった私は、「タイタンV」「ザターン」「ヴィーナスGP」の3機種を中心に攻略し、さて帰宅をしようと。

 

そのため、当初の段階で印象的だったのは、主に絶叫マシンなんですよね。マニアたちが高く評価している大型コースターに乗車できた満足感もありましたし、こうしたスリル性の観点では、富士急やナガシマに次ぐ感触があった。

 

しかし、遊園地自体の雰囲気としては、特に深くを感じさせるものはなかったんですよね。テーマパークの観点においては今一歩。そんな判定を下して、退園ゲートに向かおうとしたんです。

 

その瞬間、軽やかな音楽が耳元を掠めました。ショーが上演されていたんですね。私は自然とそちらの方向へと吸い寄せられました。

 

ーそれが、スペースワールドへの見方が変えるきっかけになるわけですね。

 

そうなんです。
私が見たのは、スペースワールドのマスコットキャラクター"ラッキー"と"ヴィッキー"がダンスを踊るシーンだったのですが、それはあまりにも圧巻で、鮮明なインパクトを残しました。

 

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ー具体的には、どのような点が印象的だったのでしょうか。

 

もうね、本当に全力だったんですよ。
観客はわずか数人で、座席もガラガラ。そんな状態なのに、彼等のダンスはまさしく全身全霊なんです。

 

手足の先まで神経が通っているのではないかと思うほどダイナミックで、着ぐるみのキャラクターが側転までしてみせる。そんな躍動的なダンスに爆音の音楽を合わせながら、空席だらけの観客席に対して、それはもうできる限りの力を振り絞っているんです。

 

もちろん、つたない部分を指摘することは簡単だったのかもしれません。それでも、確かにそのショーは美しくて、私の心を魅了した。

 

私はそれを初めて見たとき、その面白さに衝撃を受けるとともに、何かを訴えられた気がしたんです。たとえ、数少ない観客だとしても。先の明るくない経営状況だとしても。スペースワールドは苦難の状況にあったのかもしれませんが、来園者を笑顔にさせる一心において、非常に強い信念を抱いていたと思います。

 

他の人がどう感じたのかはわかりません。でも、まちがいなくそれは最高のショーで、私は感動して、泣いてしまいそうになりました。

 

スペースワールドへの意識が変わったのは、そのショーがきっかけだったのですね。

 

そうですね。少なくとも、あのショーをきっかけに、私はスペースワールドの切実な姿勢が見て取れるようになったのです。

 

たとえば、園内には多くのBGMが流れており、地方遊園地としては、オリジナルソングの曲数が非常に多い部類だったと思います。スペースワールドは手作りの姿勢を尊重していたんですね。どの曲も、いまだに口ずさんでしまうほど軽快なのですが、定期的にアップデートをしていた点も素晴らしいです。

 

また、アトラクションはストーリーが設定されていてるものが多く、ライト、造形物の演出効果やBGM、スタッフの方々の言葉にもこだわりを感じることが多くありました。

 

このように、曲や演出という点からも、我々に対して何かを訴えかけていることがわかります。それは、他のどこでもなく、"スペースワールドを体験させたい"という強い意思なんですよね。

 

スペースワールドは、やはり来園者数や敷地面積などのデータから、国内の最大手パークと呼べるような状況ではありませんでした。それでも彼等は、テーマを魅せる、ストーリーを魅せる、あるひとつの空間を体感させる……。こうした「遊園地を作り上げる者」としての大切なマインドを、できる限り崩さないように奮闘していたと思います。

 

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ヴィッキーはヴィッキーだった! 
衝撃を受けたレストランでの出来事

 

スペースワールドに熱中するきっかけとして、他に何か大きなエピソードはありますか。

 

あります。ある日、キャラクターとグリーティングができるレストランに行ったんですよ。

 

そうして食事をしているとヴィッキーが出てきて、テーブルの近くまで会いに来てくれたんです。

 

そして、今なら本当に申し訳ないことなのですが、あのとき私は、咄嗟にこんなことを漏らしてしまったのです。
「ありがとう。いつもショー見てるよ、ちょっとここでも踊ってみてよ」
って。

 

どうしてそんな言葉が出てしまったのか……。今でも不思議に思いますが、脊髄反射のようなものだったかもしれません。

 

ー面白いですね。

 

そして、私はその言葉を漏らした瞬間、「このヴィッキーが踊ることは難しいだろう」と思ってしまったのです。

 

ショーの場でのヴィッキーの踊りは、本当に美しく、滑らかなんですね。しかし、こういう言い方はよくないですが、ショーの中の人とグリーティングの中の人は別人でしょう。あんなに洗練された踊りを、今目の前にいるヴィッキーが演じることは不可能だろうって思ったんです。

 

ーそう考えるのが妥当ですよね。

 

それなのに、私の言葉を聞くや否や、ヴィッキーはまるで笑ったような素振りを見せて。次の瞬間には、あのいつものような、手足の先まで綺麗に整ったダンスを踊り出したんですよ。私のためだけに、全力で、力強く。まるで時が止まったかのようでした。

 

そしてその姿から、これこそがエンターテイメントだ、という心意気を感じずにはいられませんでした。そして、なによりも「ヴィッキーはヴィッキーだったんだ!」という感情が強く湧いたんですよね。

 

おそらくスペースワールドでは、週5日のショーもグリーティングも、ほとんど同じ人が中身を担当していたのでしょう。
どこで見かけるヴィッキーも、正真正銘同一のヴィッキーで、そのときに私はより深くヴィッキーと繋がれたような気がしたんです。

 

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35000¥さんが好む「ジェットコースター」についても、何か印象的な点はあるのでしょうか。

 

ショーに衝撃を受けたあとに着眼するようになった部分ではありますが、
通常はスリルを体感させることに留まりがちな大型コースターにも、ストーリーを持たせていた点は魅力的でしたね。くわえて、スタッフの方々のセリフ・動きやマイクパフォーマンス、座席を自由に選べるシステムなども、非常に満足度が高かったと思います。

 

また、最近は安全面への規制が厳しくなっているじゃないですか。だからこそ、ジェットコースターについては、多くの遊園地が「乗車中は安全バーにおつかまりください」と案内をするんですよ。

 

しかし、スペースワールドは違いました。名物となっていた時速130kmを誇るジェットコースターですら、「このジェットコースターは(園内の3大コースターの中では)1番怖くありません! 余裕がある人は手を離してみましょう!」とか「何度も乗ってる方は、足をクロスして、腕を下に伸ばして乗ってみてください!」って言うんです。

 

もちろん他の遊園地を批判しているわけでもなく、スペースワールドが安全に考慮していなかったというわけでもありませんよ。

 

ーなるほど。

 

全力でメンテナンスも行いながら、少しでも来園者を笑顔にするためにはどうすればよいか。どのような工夫をすれば、1人でも多くの人が楽しめるか。こうした点において、スペースワールドは少しの妥協すら許さなかった。これは、地方遊園地でありながら、アトラクションごとに別々の制服を用意していたことからも明らかです。

 

強く気高く、戦い抜くこと。
人気アトラクションですらほとんど待たずに乗れる閑散状態にありながら、このような姿勢を貫いたスペースワールドから、強い覚悟と気品を感じずにはいられません。

 

ご存知のとおり、スペースワールドは地元の方々に深く愛された遊園地でしたが、それは、どこまでの真摯な姿勢の賜物であったと思いますね。

 

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ーなるほど。たしかに、福岡の人にとってスペースワールドは非常に近しい存在だったとよく聞きますね。

 

はい。地元の方によれば、ローカルテレビでは、スペースワールドのキャラクターたちが登場する番組もやっていたそうですね。

 

多くの子供にとって、ラッキーやヴィッキーは馴染み深い存在で、スペースワールドのオリジナルソングも自然と耳に入ってくる。九州出身の友人は「ラッキー体操は口ずさめるし、なんなら踊れるかも!」なんて言っていましたね。


彼らにとって、スペースワールドは常に日常と隣り合わせの存在だったようです。本当に地域に根差した遊園地だったのでしょうね。

 

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閉園から2年。
いまもなお鮮明に残る、あの頃の想い

 

ー最後に、閉園間近となった頃のご心境について、お伺いしたく思っています。

 

それはもう、センシティブな心持ちになったことを覚えています。

 

スペースワールドの象徴ともなるロケットには、「閉園まで残り○日」というカウントダウンが表示されていたんですよ。

 

その光文字が映ったロケットは、あまりに美しく、それでいて残酷でした。
ジェットコースターに、躍動感に満ちたショー。そしてスタッフの方々の明るい声は、どれも"動"的なものでしたから。わずか数日後には、それが一切の機能を喪失して、完全な無へと帰結してしまうんです。それを想像するのは、あまりに心痛い。たとえ417光年離れた星に移転するのだと分かっていても、ね。

 

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ーなるほど。

 

けれど、期限の定められたアトラクションは、どれも貴重で、かけがえのない経験だったことも事実ですね。楽しさと悲しさが同居して、すべての瞬間を惜しむように、1秒1秒を噛み締めていたと思います。

 

ー最終日については、どのような想いでいらっしゃいましたか。

 

晴れることを前日から願っていましたね。雨もなく、風もなく。運休することなく、すべてが華やかに終わってほしかった。

 

もちろん、私自身が乗車したいという感情もありましたが、平静に、正当に。美しい状況でこそ、ファンに見守られてその役割を終えてほしい。そんな感情が強くありました。

 

実際のところ、当日の朝は雨が降り、花火のときは風が吹いてしまったのですが、すべてのイベントを遂行していただいたので、最高の最終日になったのではないかと思います。

 

ー最終日は、ヴィーナスの花火も印象的でしたね。

 

 

幻想的で幻想的で。自分は本当に生きているのか?と(笑)
この世の終わりみたいだなぁと、呆然としながら眺めていました。

 

12月30日からは涙を流しっぱなしでしたね。終わってしまう、という事実だけが音を立てて迫ってきて。それなのにスペースワールドはどこまでも優しくて。

 

ー35000¥さんのような心境の方は多かったと聞きます。本当に愛されていたのですね。

 

そうですね。
最終日のタイタンMAXでは、スタッフの方が、
「最終日の本日に、愛していたタイタンを担当させていただけて光栄です」
と挨拶をしてから、案内を始めるんですよ。涙ぐみながら、全力の笑顔で「行ってらっしゃい」と言ってくれたときには、ジェットコースターの巻き上げ中に大泣きをしましたね。

 

スペースワールドは、その片隅までがスタッフの愛で溢れていました。スペースワールドで育ち、スペースワールド愛する人が、スペースワールドを動かしていく。愛の循環で生まれた空間、そんなことを感じずにはいられませんでしたね。

 

さまざまな歴史とともに作り上げてきた幸福な場所。それを最後の最後まで体験させていただけて、感謝の思いで一杯でした。

 

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ー今でも、スペースワールドについて語るときの35000¥さんの瞳は輝いていらっしゃいますよね。本日は色々とお話しくださり、ありがとうございました。

 

いえいえ。私は初入園が2014年でしたので、もっと愛の深い方はたくさんいらっしゃると思うと、恥ずかしい限りです(笑)

 

それでも、私はまだまだスペースワールドの亡霊ですので。こうして話すことで、少しでも成仏ができますよ(笑)  こちらこそありがとうございました。

 

 

ということで、今回は35000¥さんにインタビューを行いました。つくづく遊園地というのは色々な愛が生まれる場所ですね。断片的に語っていただいた思い出からでも、スペースワールドの温かさを垣間見ることができます。

 

多くの地方遊園地は今後も斜陽になるかと思いますが、それでも、どうか強く。戦い抜いてほしいと切に願います。

 

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あのサンドルが消えていく

乗れば乗るほど喪失します。あなたはどれだけ乗りましたか? どれだけ喪失しましたか? 1つ知るたびに、何かが削られていくのです。



子供のころから、ジェットコースターのもつ魔性の魅力に心を奪われていた。あの奇抜で挑発的なフォルムはとても美しいでしょう? そのうえ、あんなにクネクネした鉄骨の上を猛スピードで駆け抜けるなんて、胸を躍らせずにはいられない。この感覚、わかりますよね?


で、幼い頃の僕は、はやくもこのジェットコースターの魅力に取り憑かれてしまったのである。インターネットサイトや旅行雑誌のコースター写真を見ては心をときめかせ、あぁ、この部分ではどれぐらい内臓が浮くのだろうか、この部分ではどれぐらい圧力を受けるのだろうかと、勝手に夢想して楽しんでいた。


あくまでも「夢想」が中心だったのは、実際に乗りに行けるだけの機会が訪れなかったからだ。


遊園地というのは、夢を売るだけのことはあって、値段の高い施設である。当然ひとりの小学生が足繁く通える場所ではないし、親の援助も必要となる。残念ながら僕の両親は、宗教に通う文化こそあったけれど、遊園地を楽しむなんて文化はなかった。それどころか、低俗でくだらないものだから行きません、あなたは本を読みなさい、ボードレールを読みなさい、というような風当たりだったのだ。

 

こうした状況から遊園地に通えなかった僕は、幼少の頃に一度だけ乗ったディズニーコースターの乗り味をたよりに、大型コースターの感覚を想像するしかなかった。もちろん富士急やナガシマなんてのは、夢のまた夢。当時の僕にとっては果てしなく遠い場所であり、淡い憧憬であり、リアリティの伴わない存在だったように思う。

 

媒体を通して目にする情報の断片こそが、僕にとってのジェットコースターだった。


 

そんな僕に、大型コースターに乗車する機会が訪れたのは小学5年のころ。成績もよかったから、テニスの大会も勝ち残ったから、後楽園に行かせてください、サンダードルフィンという爽やかで滑らかな鉄骨に乗らせてください、と母に頼み込んだことが契機である。

 

母はとくに理由もないのに反対気味だったが、僕は「行かせてくれなきゃ死にます」などと言って駄々をこねた。結果的に僕の決死の思いが伝わったのか、過度な執着心を面倒に思ったのか、母は引きつった顔を浮かべながらも、「はやめに帰ってくるのよ」と交通費とチケット代を渡してくれたのである。僕のサンドルデビューが決定した瞬間だ。


当日の僕ときたら、お金を握りしめながら、不自然なぐらい口角の上がった笑顔と異様に軽快なステップワークで、水道橋に向かった。息を切らしながら階段を駆け上がり、あぁこんなにも幸せな日があるのか、写真で見たあの美しい鉄骨を走る日が来るのかと胸を高鳴らせ、今日がいつまでも続けばいいな、それでもやっぱりあの落下は怖そうだな、などといろいろな感情を錯綜させて、サンダードルフィンに乗った。

 

 

結論からいえば、すばらしかった。すべてのモーションが衝撃、痛快。大麻を摂取した人間は、わずかな刺激ですらも敏感に感じられるという話を聞いたことがあるけれど、あのときのサンドルはそれに近かったと思う。

 

屋根上のちょっとしたサーフィン部分ですら十分な乗り応えがあったし、ファーストドロップに至っては大麻というよりヘロイン? 僕がそれまでの人生で体感した快感、または不快感の絶対値を遥かに上回るほどの激烈さが、そこにはあった。そして、その感覚は明確な「色」を持っていて、学校だとか受験戦争だとか、勝利だとか、そういったことに奮闘している僕の日常は、なんて無色なのだろうと思った。絶対的な「有」の前には、あらゆる出来事が無機質に感じられてしまうものだ。既存の常識やロジックを、まるで暴力的に破壊するかのような過激さに心を打たれて、僕はいっそうジェットコースターの虜になったのである。

 

 

それから長い年月が過ぎて、後楽園からはリニアゲイルが撤去され、タワーハッカーが撤去された。僕は大人になって、金や自由を手に入れた。

 

今の僕は、勤務先から15分足らずで後楽園に行くことができる。母に訴えなくても、ジェットコースターに乗れる。富士急やナガシマだって、簡単に行ける。

 

僕は、子供の頃に憧れていた米国のパークにさえ足を踏み入れて、ibox、B&Mギガ、インタミンギガ、GCIなどといった、一流機の感触を知った。乗車機数も300機程度となり、幅広いコースターの乗り味を知った。おそらく僕は、正真正銘の「ジェットコースター乗り」になれたのだと思う。

 

しかしふと、かつてのあの瞬間を、サンドルを享楽した幼き自分を、羨ましく思うことがある。子供の頃に、やっとの思いで乗ったあの「1回」は、今の「1回」と大きく異なる。あの頃の体験は、今よりももっと輝いていて、尊くて、神聖なものだった。幻想や空想にすら近い体験であり、リアリティを超越した心地があったように思う。

 

最近でも、後楽園にはよく行くけれど、かつては聳えて見えたサンドルの鉄骨が、物足りない高さに感じられるようになったのは、いつからだろう。心臓が弾けそうなほどに高揚して並んだキューラインも、その開放感に胸を衝かれたあの座席も、憧憬の対象となっていたレールも、あの頃のような光彩を放ってはくれない。僕の元に残ったのは、ひどく現実的な鉄骨の風景と味気のない乗車感だけだ。

 

時を経て経験を積むごとに、あらゆるモノが喪失してしまったと思う。僕は「ジェットコースター乗り」になった反面、「ジェットコースターの夢想家」で在り続けることはできなかった。
 

すべての要素において異次元の感触を抱いた「あの」サンドルを、僕はもう二度と味わえないのだろう。サンドルのキューラインに並ぶ少年の表情に、隠しきれない高揚感が浮かぶとき、そこにかつての自分を見出すのである。

 

 

 

本来、ジェットコースターとは重力や浮遊感といった体感のみを甘味するものではない。

 

「この乗り物は、さぞかし尋常ではないのだろう」といった乗車前の想像性や、落下前の緊張感までを含めて乗車体験であり、非マニアの乗車感覚は、こうした精神的な要素と体感的な要素を統括することで成り立っている。

 

さしずめ重要なのは、"空想の余地"である。高い場所から落ちてしまう、身体が回ってしまうがゆえに、「恐らく"やばい”ものなのであろう」という無邪気な空想を、どれだけ持ち続けられるか。

 

僕はsteel vengeanceに乗り、fury 325に乗り、X2にだって、intimidator 305にだって、millennium forceにだって乗った。高さ100mの現実性を、時速200kmの現実性を獲得し、「やばさ」の果てを知った。こうして、"空想"という行為の試みが難しくなったいま、僕はただ速度と重力を実感するのみに留まった、"レビュアー"としての乗車感しか、体験することができない。既知の乗り味を咀嚼することしか、できないのである。

 

あのサンドルが、どこまでも快感だったのは、「初乗車だったから」というだけの理由ではない。乗車に辿り着くまでの過程や、本当に80mから落ちるのかという恐怖。異次元の速度感。未知の感覚との遭遇。こうした要素が絡み合って生まれた1回であり、それは"現実"の向こう側にあるものだったのだ。大型コースターの刺激が、僕の日常性の一部となった今、かつてのような、"非現実"の感触を享受することはできないのかもしれない。

 

 

ジェットコースターの製作技術は、日々進化を遂げている。僕の原体験となったあのサンドルが消失しても、次なる最新機がふたたび高揚感を与えてくれるのだろう。もちろん僕は、そう信じている。けれど、それもいつまで上手くいくのだろう。

 

来年のフロリダには、steel vengeanceを超える、最大スペックのRMCiboxが完成するようだ。確かに期待感はあるし、魅力的なコースターなのだろうとは思う。しかし、果たしてそれは劇的なのか。既存の概念を、空虚な現実性を、固定化した価値観を破壊し得るものなのかと疑問になる。所詮はvengeanceにtwisted timbers、lightning rodに白鯨なんていう、僕が乗車したRMC上位層の感触と、大差がないのではなかろうか。そう思えてならないのだ。

 

僕は一体あと何度、脳髄が打ち砕かれるような圧巻の衝撃を体験できるのだろうか。両手の指で数えられるほど、それがあるのだろうか。

 

 

ジェットコースターという趣味は、「あれはさぞかしすごいものなのだろう」という夢想を、現実の感触で溶かしていく試みだ。乗れば乗るほど、「果て」を知る。その後は熟知した「果て」を、どれだけ何度も賞味できるかにかかっている。噛みに噛んだガムを、僕はいつまで味わえるのだろう。いつまでも味わっていたいと、切に願っている。

 

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